結成宣言


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「不滅」でペンをおく  40

 幕の上がる前のざわめき。試合開始のホイッスルを待つ静けさ。待ち合わせの場所に身を運びながら、これから始まるシーンを想い描くひととき。
 そういう期待や緊張とは別のところから、この小説は始まる。
 日常風景と作品宇宙の「敷居」がここにはない。スポーツクラブで初老の婦人が何気なく示した仕種と微笑、それを見ていた作家の中でひとりの女性が生き始める。彼女の暮らし、死別した両親。そして夫、妹、娘。何のてらいもなく、作家の内に想像上の人物達が立ち現われ、人間関係の襞ひだが切開されていく。ゲーテとゲーテを愛した女性、さらにベートーヴェンやロマン・ロラン、ヘミングウェイにまつわる作家の考察を含めながら。
 ひとつの筋に収束される物語ではない。それでは面白くないのかと問われれば‥‥、面白い。ページをめくりながら微笑みを禁じ得ぬほど。行き場を失った監視社会、かつてのスターリン主義国家チェコで人間の極限状況を見て来た作家は、国境を越え「自由」の身となったからといって、怜悧な観察者たる自己を見失いはしない。どうやら人間というもの、社会体制の相違でたやすく思考スタイルを分けられるなどといった種類の生き物ではないらしい。登場人物を分解し、腑分けし、論評を加える鮮やかさは、まぐろの解体ショウを見る醍醐味、痛快さに通じる。そしてその斬れ味たるや、ロマン主義的情緒性をみじん切りに刻む心地良さでもある。
 先人のたどった痕跡を歴史と呼ぶのだとしたら、そのかすかな足跡すら見えなくなってしまったと感じる現在。唯一絶対の正解を信ずることのできない時代だからこそ、小説という方法の有効性は生きてくるのだと思える。
 硬直し瘦せ細った「唯一絶対」への依存を自らに禁じる。安直な答えになだれ込みそうな欲求に耐えながら、今在る場を踏みしめそこに映るものを多様に見据えていく。答えに閉じるのではなく、問い掛けに開いてゆく。‥‥そこに小説の提示する可能性があるのではないか。クンデラを読む喜びはそこにある。

ミラン・クンデラ「不滅」 訳・菅野昭正 集英社

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 手当たり次第、行き当たりばったりつづけてきたこのコラムもなんとかゴールにたどり着けたようです。
 長い間お付き合いくださった皆さま、どうもありがとうございました。いつもはらはら、しかしそれでも最後まで筆者の自由に任せてくださったMEPRO関係者の寛容さにも、この場を借りてお礼申し上げます。
 アマゾンKindleで、拙著も何冊か電子書籍刊行されています。これを機会に、覗いてみていただければ幸いです。

                                                  (おおしま) 

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 「読書雑記」コーナーはMEPROのHP(約40コーナー)中、閲覧数が常に上位3位以内!おおしま氏に計20作の予定でお願いしましたが、好評につき倍の40作まで延長していただきました。
 古今東西の多量広量な隠れた名作も含めた中から、氏の慧眼に叶ったものを毎月1冊、作品の琴線に触れた心情で読ませていただきました。
 ファンと共に誠直より御礼を申しあげます。ありがとうございました。
                                                  (MEPRO)
 

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おおしま氏著作の主な電子本
■本読み漂流記12選  2014/1/20 Kindle本
■黄昏に微笑を            2014/4/22 Kindle本
■黄昏はゆるやかに     2015/6/02 Kindle本

「生きている過去」に浸されて 39

 オビの言葉に惹かれて本を買うことは滅多にない。惹かれて読んでもまず正解だったためしはない。数少ない例外と言っていいのが本書。――荷風が心酔した黄昏の詩人レニエの傑作小説‥‥こう書かれていれば手に取らぬわけにはいかない。そして気持ちよく酔い、酔いから醒める覚醒の苦さも味わった。
 二十世紀初頭ベルエポックと呼ばれた時代は、衰退の道を辿りながらかろうじて存続してきた貴族階級の最終的没落と、それに代わる新興ブルジョワ階級の覇権が誰の目にも明らかになる時代であった。変わりゆく世界にひとは時の移ろい、過去、現在、未来を頭に描く。未来に向けて現在はいかにあるべきか問いかけ、過去を振り返って現在をただす。そこでは、当然ながら現在が存在の立脚点、思考の根拠と看做される。しかし、現在とはそれほど揺るぎなく約束されたものだろうか。過去と未来を見下ろす絶対的な高みを意味するだろうか。
 ヴェルサイユ近く、革命の破壊からかろうじてまぬがれた豪壮華麗な館を維持する、それだけに汲々とした日々を送る貴族の青年は、偶然、自分と同名の祖先がイタリアの戦さで命を落とし、今や忘れ去られ彼の地で永遠(とわ)の眠りについていることを知る。自分の生きる「今」と折り合わぬ青年は次第に、この祖先こそ遠い時間の彼方から自分を動かそうとしているのではあるまいか、との観念にとらわれていく。果たすことのかなわなかった想いを実現させるため、現在というこの時に噴出してきた過去。ならば自分の内に在る過去こそ、現在のこの自らを規定するのではないか。戦さに向かう祖先の真に愛した女性は、ラ・トゥールによって肖像画に描かれ、その肖像画と瓜二つの子孫を身近に見出したとき‥‥。
 内に宿るはるか過去の声を聞く。現在に呼びかける声を聞かずにはいられない。時は絶えることなく、いつまでも追いかけてくる。甘く、苦く、行き場のない現在を消滅に至らせるまで。それこそ滅びなのだろうか。
 深紅の夕景を背景に優雅にひろがる、古い館の影が目に沁みる。

レニエ「生きている過去」 訳・窪田般彌 岩波文庫
一服したら「郊外へ」 38

 郊外(バンリュー)という言葉は、もともと領主の「布告」が届く城壁の外「一里」ほどの範囲を意味していた。そう説明されて「郊外」のまとう意味の二重性にはじめて気が付いた。都市に寄り添うことでようやく成り立つ従属的な地域、と同時に都市のくびきから放たれ外側へと開かれていかんとする場‥‥。城壁を持たぬ地で育った者には想像しがたいほど截然と、城市と郊外は土地と住民の意識を分かつものらしい。
 本作各掌篇の話者はそれぞれ作者の分身たちだろう。はっきり描かれているわけではないが、文学をテーマにパリに留学している少壮研究者。分身たちは、暇つぶしに出向いた場末の市場や、色褪せたカフェでの何気ない会話、散歩の折に見掛けたこれと言って特徴のない光景などから、小説のひとこまや詩篇の断片、映画のワンシーン、風景写真の画像を思い出したり浮かび上がらせたりする。郊外へ、そして郊外から。うねるような文体の、衒学的になりかねない文章に付き合うことで、読者はまだ翻訳さえされていない現代作家や忘れられた物語と出会う。まったくの他者が霧の中から不意に姿を現わすのに立ち会うスリリングな体験でもある。
 中心性の高い都市であるほど周縁性も高まる。周縁が中心を物語る。書きとめ、写し取られた情景を求め、話者たちは地図上で場所を確定し、頭の中に情景を組み立て、現実の場を訪れてみようと思い立つ。‥‥だが、それらは少しずつずれている。作品内世界、地図に立ち上がる地名、頭の中で再構成された情景、実際目にした光景。少しずつずれている。重なり合う部分とはみ出る部分。写された時代、それを追って掌篇の書かれた時代、さらに加えればそれを読む読者の現在と。メトロが郊外まで延びた事実に象徴されるように、市内と郊外はそれぞれ越境し合い、地理上の境界と心理的境界に差が生じている面もあるだろう。
  しかし、このずれにこそ著者の狙いはあるのではないか。たとえば左目で見た光景と右目に映る光景の像のずれを通して、ひとははじめて距離と立体感を感受するものだから。

堀江敏幸「郊外へ」 白水Uブックス
「不在の騎士」が不在になるとき 37

 呆れるほど戦さに明け暮れしていた中世騎士道の時代。異教徒と戦うシャルルマーニュ麾下の臣将に、虹色の羽根飾り、純白の甲冑もまぶしい騎士がいた。威風堂々、勇猛果敢。しかし、彼が他の誰とも大きく異なっていたのは、輝くばかりにみがかれた甲冑の中は空っぽ、肉体・実体を持たぬ《不在》という点だった。
 不在、それは純粋な意志としてのみ騎士たることを意味する。言い換えれば、いかなる実在の騎士より騎士そのもの。有職故実に通じ、規範・規律を熟知し質実剛健。余計な肉体を持たぬから、騎士以外の何者でもあり得ない。不在であるが故に実在する者を超え、騎士たる騎士、騎士の本質そのものになりおおせている。食欲もあれば眠りもする、女性の色香に迷いもすれば打ち合いに怖じ気づきもする。生身の騎士たちにとってはやはり煙たく遠い‥‥。
 そんな彼の従者は、存在する自己を認識せぬ者、いわば主人の対極に位置する者であり、彼を仰ぐ青年は自己の可能性をどこに置くべきか迷い、神秘的な憧れの対象である神聖騎士団にいたっては聖杯信仰のもとに、主体を失った野盗集団。‥‥と続けると寓意に満ちた難解な哲学小説と思われるかもしれない。しかし、この物語の話者が若い修道女で、改悛の「行」としてこの記録筆記を負わされており、その展開もしばしば座礁するという設定に、作者の諧謔精神が透けて見えてくる。この世でもっとも自然な、観念遊戯に長けた者は未成熟な自己閉塞のうちにある乙女に他ならない、そこにかろうじて成り立つ物語とでも言うように。
 次第に疾走感を増す物語は文句なく楽しめる。どこかで読んだ記憶のあるもののパロディだと思い返す間もなく、いつしかページを繰っている。未成熟は成熟へと向かう「動」のうちにある。理念あるいは規範性、不在の騎士たる「不動性」と相容れない不安定な揺らぎ、それは可能性の原動力でもある。そんな「動」に出会ったとき《不在》は不在本来に戻るしかない、消え行くしかない。‥‥作者の手管にのせられ、少し解釈し過ぎてしまった気がする‥‥。苦笑しつつ脱帽。

イタロ・カルヴィーノ「不在の騎士」 ■訳・米川良夫 河出文庫
あらためて「羊の歌」 36

 稚拙な抵抗感から、フェアな出会いを避けてきた者や物のなんと多かったことか。まともに正対できず、いかに多くの回り道をしてきたことか。父親の年代にあたる知の巨人・加藤周一を想うとき、痛苦な罪悪感にとらわれる。
 生まれ、育ち、資質、知的能力、何をとってもこれほど恵まれた人物は滅多にいるものではないと感じたからこそ、理屈以前に反発を覚えた。何を言っても破綻を見せない、それは要するに書斎派の微温的な発言に他ならないせいと頭から決めてかかることにした。1960年代末期の高校生の非論理的、非知性的反抗心を刺戟する対象として、氏はまず現れた。朝日新聞夕刊文化欄に掲載される豊潤な内容のエッセイを、虚心に受け止めるようになるまで20年の歳月を要したように思う。
 本書は1930年代幼年期の渋谷の町の光景から、本郷の医学生として迎えた皇国の降伏1945年8月までを綴った自叙伝。幼児期の記憶の細部にいたる正確な描写にも驚かされるが、淡々とした筆致で綴られた論理の明晰性、その柔らかな強靭さに何よりも驚かされる。父親同様医学を学びながら、万葉集、英独仏の言語から文学、社会、歴史、思想にいたるまで縦横無尽に思考領域をひろげ、たとえば軍国主義の席巻する時代に《制服、号令、七五調の標語、粗野な態度と不正確な言語、他人の私生活への干渉、英雄崇拝と豪傑笑い、「日本人」意識》を嫌った。それも付け焼き刃の感情としてではなく、子どもの頃から蓄積された論理的思考とそれに裏打ちされたみずみずしい感受性によって。‥‥駒場の旧制高校時代、当時の文壇大御所で「日本精神」昂揚に傾いた横光利一を完膚なきまで論破したエピソード、東京大空襲後の大学病院での緊急医療態勢など、興味深いシーンの数々にそれは遺憾なく織り込まれている。
 東洋の島国の現状を目の当たりにして、氏を含め父なる年代の骨太な知性の去っていく今、脆弱ながらぼくらこそ、思索の言葉を受け継がねばならない。
 その想いばかりは深い。

加藤周一「羊の歌」 岩波新書
伝説の「但馬太郎治伝」 35

 売り家と唐様で書く三代目――人情の機微の本質を衝く川柳にくすりと笑みがこぼれる。しかし、そのスケールがあまりに大きく、想像を絶する規模となれば、おのずと反応は違ったものになる。くすりの笑みが、こんなヤツいたのかとの感嘆と驚きに変わる。薩摩治郎八。当時の日本でも有数の資産家三代目にして、大戦間パリでバロンと呼ばれた男。世に資産家は多くとも、本場本物の社交界で贅を尽くすことの意味を知っていた者は決して多くない。
 本作は、そんなバロン薩摩と不思議な縁に結ばれた小説家の描くモデル小説。昭和5年パリを再訪した「私」は、但馬太郎治なる東洋の貴公子、眩しいばかりの華麗な存在を知る。17年後、疎開先から焼け跡の東京に戻った「私」が仮寓したのは神田駿河台の広大な洋館の一部、たまたま太郎治の旧居だった。流行作家として地歩を固め大磯に家を求めると、これまた偶然但馬家の別荘跡であることが判明。こうまで偶然が重なれば、どうしたって気になる。但馬家の成り立ちから、太郎治外遊の事情、胸を患って帰国静養の末他界した美貌の夫人、さまざま集まる断片的な情報や消息に想像を重ねていく。戦中も海外に踏みとどまった但馬がやっと帰国し、文芸雑誌に発表した半生記を丹念に読み込むことで、燃え上がった好奇心もやっと落ち着いたかに思っていたが‥‥。
 小説の取材に訪れた徳島で、蕩尽の果て零落した但馬が再婚相手の実家二階に住み着いているという噂を耳にし、これはどうしても会っておこうと思い立つ。老境を迎えたふたり、はじめての顔合わせだった。
 想い描いてきた人物と、数十年の歳月を経て実際に対面し言葉を交わす。それは「私」にとって真剣勝負。返り血を浴びる覚悟なくして成り立たぬ場面だろう。その自覚と緊張感の伝わってこないもどかしさは否定できない。それでも、同時代を共有した伝説的なクセ者二人の織りなす交点は、凡百の「評伝」では掬いきれない「生」を浮き彫りにしている。

獅子文六「但馬太郎治伝」 講談社文芸文庫
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」、いつものように  34

 1930年代はじめ、不況の時代。アメリカ、カリフォルニア南部。熱く乾いた空気が漂う。

 アタマの回転は悪い方じゃない、マスクだって仕種だってテクニックにしたってどうしてどうして捨てたものじゃない。警察に何度か厄介になったし、腰の落ち着かぬ根なし草、何をやっても長続きしない。ひとところにじっとしていられないから、カネの持ち合わせなどあるわけもない。それにしたってある意味、オンナにとっちゃあ魅力に映ることだってある。

 そんな風来坊が幹線道路脇の安食堂へ、メシにありつこうと立ち寄るところから物語は始まる。食堂とガソリンスタンド、ちょっとした修理所を経営しているのはお人好しの中年男。小太りで脂ぎったギリシア人は、ガソリンスタンドで働く気はないかと持ち掛けてくる。見るからに不釣り合いな年若い女房は家出同然田舎町を飛び出し、落ち着きと小金に惹かれて妻の座にころがりこんだ肉感的なオンナ、食堂の台所をまかされて料理の腕だって悪くない。

 こんな3人が出会えば、事は起こるべくして起こる。使用人と女房は、邪魔なギリシア人を始末しようと思い立つ。一度目は失敗、二度目に成功。しかし、ここからふたりに感情的な齟齬が生まれる。もっと正確に言えば、やっと人間的な感情の陰影を持ち始めたそのときから、共犯者であるふたりに真の愛憎劇が始まる。

 どうにでもなった。しかしどうにもならなかった。幕切れは呆気なく、思いがけない形でやってくる。風来坊のまとめた手記という体裁を取っている本文だが、彼の書き留めた事実関係に大きな噓はないだろう。運命にもてあそばれ、それを不本意ながら受け容れるしかない彼に虚構を語るだけの余裕はない。

 郵便配達という名の運命ははじめゆるやかに、次に強く激しくベルを鳴らす。そう相場は決まっているのだろうか。カリフォルニア南部の熱く乾いた空気の流れを、再び首筋に感じる。

ジェームズ・M・ケイン「郵便配達は二度ベルを鳴らす」 訳・田口俊樹 新潮文庫
そこに「編集室」があるから  33

 社会部記者の「わたし」が書き留めた連作短篇集は、シューベルトの歌曲集を意識した「冬の旅」と冠された序から始まる。わたしの旅は事故や事件、殺人とか自殺の取材が中心で、いつでも陰鬱、不吉な色彩を帯びている。残酷な場面に飢えた読者に、不幸な人間の織りなす実話を描き出し、プレゼントするために。それでも、なおかつ荒涼とした数々の旅のうちで出会ったなにものかのために、わたしは記事を書く。
 魅力に乏しいわけではないくせに、いつしか不運を溜め込んでいく田舎育ちのブロンド娘。取材した相手が次々に生命を失う偶然の重なりに、職を離れていった同僚記者。いくら他人から賞賛されようと自分の才能に見切りをつけている小説家は、自分自身の決着点を見ている。殺人罪で収監されていた刑務所から出てしばし、修道院入りを決意したのは居住まいのきっちりした女性‥‥。
 特にどうということではない。それでも、ひとはそれぞれどこかしら過剰ななにがしかを抱いていて、それを持て余し、なだめすかしながら生きているのではないだろうか。隠しおおせず噴き出した何かが社会的な喝采を浴びる種類のものになることもあれば、行きずりの話し相手に嫌悪感をもたらすだけのこともある。時を経て自分自身で折り合いをつけられたと感じることもあれば、どこかで対決せぬ限りどうにも耐えがたいものとなるときもある。傍目(はため)にどう映ろうと。
 シューベルトの歌曲を頭に置きながら、しかし、それほど悲劇的な気分に覆われないのは、個人的な悲劇の形に感受性が鈍麻してしまったからではない。「わたし」は、そしてぼくらは旅のうちで出会った彼らの思い出に、どこかで支えられていると感じるからだ。いや、こう言い直してもいい。思い出を支えているのはぼくらで、そう感じる自分自身に鼓舞されている、と。それが大袈裟に聞こえるなら、少なくとも次の旅立ちへの気力を奮い立たせられていると、さらに言い換えてもいい。
 こうしてぼくらは冬の旅をつづけてゆく。

ロジェ・グルニエ「編集室」 訳・須藤哲生 白水Uブックス
「父と暮せば」また泣かされて  32

 もともと涙腺がゆるい。まして歳と共にいっそうもろくなっている。こうなったらもう二度と手にしたくない、そんな本の一冊だというのに、電子書籍なら印象も違うかもしれないと、またまた読み直してしまった。内容が変わるわけもない。やはり泣いた。涙にとどまらず洟水まで垂らして。
 根本には怒りがある。どんな理屈をつけようが決して正当化されることのない、人類に対する野蛮で傲慢な、侮蔑。広島、長崎への原爆投下。その憤りを核にしながら、物語は進行する。
 家族も知己も失い自らも被爆し独り図書館に働く妙齢の娘は、新型爆弾、原爆の威力に強い関心を抱き、占領軍の目を盗んで資料集めに余念のない青年物理学者に惹かれ、青年も娘に惹かれている。被爆者にあらわれかねないリスクも二人で引き受けようと話し合って。しかし、一方で娘には後ろめたさがある。愛する多くの人びとの命がピカドンに奪われたのに、自分ひとり生き残り、そのうえ幸せになっていいのか。自らの若い生命を封じ込めなくてはすまぬ想いと、それを突破して生きたいとする生命力。その葛藤に、娘の恋心、生命力の応援団として、被爆死した父の亡霊が現れる。
 と言ってハムレットの父親のように曖昧でも威圧的でもない。恨みがましくもなければ、悲壮感を漂わせているわけでさえない等身大の存在。男手ひとつで旅館を切り盛りしてきた父は、得意料理も作れば、男心を籠絡する術を教えもする。何より、娘の後ろめたさは払拭されるべき病気であり、被爆死したわれわれの分も幸せに生きろと説得する。亡霊は、心底では幸せを望む娘の想いの分身でもあれば、この世に娘を残した父の想いそのものでもある。
 時間的にも空間的にも制約のある、芝居のために書かれた戯曲の 台詞は無駄がなく、歯切れがいい。ひとつひとつを解きほぐすように読み進める喜びがある。台詞に込められた言葉の余韻を掬いあげる喜びがある。制約がプラスに働いている。それは、演じられ作られていく世界の多様な味わい、大きさを意味してもいるのだろう。

井上ひさし「父と暮せば」 新潮文庫
乱歩万華鏡「陰獣」  31

 理智的な作風で売り出し中の探偵作家「私」は、上野の帝室博物館で古い仏像を見てまわる古風な美女と知り合う。年の離れた遣り手実業家小山田氏の夫人である彼女は、私の愛読者で上品にして優雅、触れれば消え入りそうな風情ながら、項(うなじ)には隠しきれないミミズ腫れを浮き上がらせていた。
 親しくなるにつれ持ちかけられた相談は、結婚前に関係のあった青年が、偶然にも作風の面でも人気の面でも私とライバル関係にある大江春泥であること。他者を苦しめ心身共に傷つける残虐な心理を、犯罪を通じて作品に結晶させていく情熱にとりつかれた作家は、かつて彼を捨てた夫人を恨み、恨みつづけて復讐の炎を燃え上がらせ密かにその機会を狙っていると言う。
 大変な人嫌いで雑誌の担当編集者とすら顔を合わせず、引っ越しを繰り返す大江春泥と、論理的明晰さを重んずる私。海外生活経験を持つ優秀な実業家でありながら、変身願望とサディズムの欲求を妻に向ける小山田。その欲望に応えながら、私と次第に深い情で結ばれていく小山田夫人。
 論理と夢幻、倒錯遊戯と懐疑精神、自己顕示と変身願望とを分け与えられているこの四人の主要な登場人物を吟味し、その相互関係をたどっていくと、実はそれぞれ乱歩自身の分身ではないか、と思いいたる。いわば乱歩の万華鏡。研ぎ澄まされた短篇作品で発揮される本領が、例外的と言っていいほどこの中篇では複合的に絡み合って登場する。乱歩好みの猟奇的な小道具のちりばめられた、贅沢で完成度の高い一作となっている。
 さらに言えば、単なる傑作にとどまらず、探偵小説というジャンル、乱歩自身までをも作中で批評する試みのなされているのが、なんとも斬新で興味深い。いかに現実をうまく切り取り、合理的に説明したつもりでもしょせん論理は論理、人間という巨大な不可思議、不可解を一面で整理づけたに過ぎない。そんじょそこらの安っぽいパズル小説には及びもつかない丈の高さこそ、いつまでも読者を離さぬ魅力の源泉であるに違いない。

江戸川乱歩「陰獣」 角川文庫、創元推理文庫/ほか
「ロートレック」という謎 30

 見てしまった男がいる。闇夜をつんざく稲妻の、ただ一瞬の閃光に浮かび上がった真実。陰翳に刻まれ、激しくもあまりに果敢ない真実を目に焼きつけてしまった男がいる。
 19世紀世紀末のパリ、モンマルトルにロートレックは現われるべくして現われた。成熟と頽廃、倦怠と爛熟の煮込まれた街に降臨した画家は、踊り子、歌手、芸人、ブルジョワ、女優、娼婦、彼の周囲の人びとを容赦なく描き出してゆく。綺麗事ばかりではない、取り澄ましたポーズだけではない、この時この場を生きる人びとの息遣い、視線、仕草、鼓動を感じ取り描き込む。ただそれだけ。ただそれだけがもっともラディカルな結晶と化し、鮮烈な火花を発することになる。
 対象の内側に入り込んでしまったら描けない、まったくの外部にとどまっていたらなおさら描けない。人間に対する飽くなき関心、そのくせ人間に取り込まれることを撥ねつける、醒めた視線によって成り立つ作品群は、画家を支持する者にとっても批判する者にとっても脅威であり、不安であったに違いない。虚飾を剝ぎ取られた裸形、隠しようのない真実がさらけ出されるのだから。
 ロートレック、彼は何者だったのだろう。フランスを代表する名家に生まれ、頭部と性器だけは立派な(立派過ぎる!)成人男性に育ちながら骨格の成長を阻害された存在。その生の枠組みが彼の資質を決定づけたと言うのは、あまりに安直過ぎる。しかし、それでも、彼の立ち位置を考える補助線にはなる。既存の道徳や価値とは無縁に37年の生を駆け抜けた者として。
  今回は「絵で読む文化史」と銘打たれたシリーズから採り上げた。ガイドブックを手にすることで一歩近づいたようにも感じ、同時にさらに遠のいたのではと首をひねさせられもする。本物の謎とはそういうものなのかもしれない。ロートレックという謎、謎の迷宮をさまよう喜びと恐怖の果てにぼくらは何を見出すのだろう。‥‥結論はまだ出ない。出るはずもないと言うべきか。

『ロートレック――世紀末の闇を照らす』 創元社「知の再発見」双書
こうして「桜の森の満開の下」 29

 桜の花が咲いている、それを見過ごせぬひとびと。眺め、見とれ、愛で、語り、嘆き、慈しみ、歌い、舞い、呼びかけ、哀しみ、惜しみ、訝(いぶか)り、なつかしみ、酔い、おそれ、狂う‥‥。桜はひとびとと無縁に、ただ咲きそめ、綻び、散っていく。
 遠い王朝時代の説話集を思わせる筆致で語られる、鈴鹿の山を根城とする山賊と都暮らしの美女の物語。生まれ落ちて以来、およそ他者なる者の存在を意識したこともなければ考えに入れたこともない野生児、頑強にして屈強、無知・無教養なるものの極北としての野蛮。一方、都の暮らしの洗練で研ぎ澄まされた美意識と美貌に彩られた究極の残酷。桜の場で男と女は出会い、束の間互いの生を交錯させ、満開の花の下に消えていく。野蛮と残酷は絡み合い、結び合わされるかに見えながら、しょせんひとときの現れの形に過ぎない。桜の森の満開の下では、文化的であろうが非文化的であろうが、人の営みを問うこと自体が虚しい。ふたりの間に愛情に似た想いの流れたひとときはあったかもしれない、欲望を分かち合ったひととき、ぬくもりを感じ合ったひとときもあっただろう。野蛮と残酷、ふたつの極端が惹かれ合ったひとときさえ。
 しかし、そこにどんな意味があるだろう。ひとびとの意思、思考、意味、感情はもろく溶け出し、その跡形さえ残さず消えいく以上。美も醜も、善も悪も、真も偽も、いかほどの記憶も価値も残しはしない。ただただ桜の花びらのみが、はらりはらりと散っていく。
 こういう感受性を説話風に語られると、読み手としてはもはやこれ以上、この物語の内側に入り込めない。閉ざされた物語の外側に閉め出され、そこで立ちすくむしかない。桜の森の満開の下、呆けたように散りゆく花びらを眺める。このとき桜の森の木の下は、取り残されたわれわれの想いが、次第に色褪せながら弱々しげに反響し合う場所でしかない。
 こうして桜は今年も咲き、散っていく。

坂口安吾「桜の森の満開の下」 ちくま文庫「坂口安吾全集」所収/ほか
「死霊の恋」の純情 28

 神学校に育ち、その塀の外に興味を抱くことさえなかった青年は、いよいよ神に仕える聖職者となるまさにその式典の席で、この世のものとも思えぬ美女の眼差しに遭遇。一瞬にして恋に落ちる。彼女の臨終の夜に居合わせ寝ずの番をするうち、その美しさに職分を忘れ思わず口づけしてしまうと、その口づけに応え女性は死霊としてこの世にとどまることになった。青年の二重生活はこうして始まる。
 昼間は片田舎の司祭として神に祈り村人たちと共に暮らし、夜、眠りに入り込むとヴェネチアで大公の御曹司のごとく放蕩三昧、いとおしい恋人との甘美にしてとろけるような日々が待っている。どちらが真実でどちらが虚構なのか、どちらが夢でどちらが現世なのか次第に混乱し、やがて混乱のきわみに達していく。男女を分かちがたく結びつける恋、結びついた男女を永遠に分かつ死。神聖と邪悪、生と死、清廉と愛欲、そのはざまで。
 珍しくもない筋立て、よくある怪異譚と思われる読者も多いに違いない。しかし、なんと言っても本作の傑出しているのは、その気品にある。宿命の恋を生きる人間的な想いにある。欲望のおもむくまま無理やり相手に何かを求める強引さはここにはない。吸血鬼である死霊が青年の生き血を啜る場面でさえ、グロテスクなまがまがしさ、おどろおどろしさとは無縁な、純愛の持つ痛々しささえ伝わってくる。生き血を啜る快楽に酔いながら女は苦しみ、啜られながら男は許している。誘惑しながら悩み、誘惑を受けながら戸惑う。ここでは一途な想いがふたりを貫き互いを思いやり、信仰と悪行、聖と邪は一般的な道徳観念、善悪関係をはなれて相対化され、拮抗するものとさえなってくる。
 熱に浮かされた者を描く文章の筆致は、決して熱に浮かされていてはならないこと、冷徹で精緻な描写力こそ要求されることを思い知らされるだけでも一読の価値ありとおすすめする。永遠(とわ)の恋なんて存在しないのになどと、この際野暮は言わぬことにして。

ゴーチエ「死霊の恋」 訳・田辺貞之助 岩波文庫所収
「母の家で過ごした三日間」のはずだけれど 27

 あれ、こういう小説だったかな。かつておもしろく読んだ覚えをたよりに再読すると、大枠はともかく細部をめぐる記憶のまるきりないことに驚く。そして多分、はじめて読んだときと同じように吹き出し、呆れ、ほくそ笑み、楽しんだ(のだと思う)。ボケの始まりかもしれない。しかし、そもそも筋らしい筋がある小説ではないから、いわゆる記憶とは縁遠い作品なのだと自分を納得させる。
 この小説は、いかに小説を書けないかを綴った小説。何年も前に契約し、手にした原稿料はとっくに使いはたし、あの手この手出版社に言い訳の借金暮らしで、税務署からの督促を遣り繰りしている。娘たちはすでに独立、長年連れ添った妻にはその都度ばれてしまう浮気を繰り返しながら、こちらもどうにかこうにか。60歳間近のきわめて寡作な作家は、郷里の村でひとり暮らす母の家を訪ねる余裕もない生活をつづけている。
 これは作者ヴェイエルガンスによく似た、しかしあくまで小説上の人物ヴェイエルグラッフにまつわる物語である。ヴェイエルグラッフはヴェイエルグラッフで自分に似た境遇の、グラッフェンベルグを主人公にして、あがきながら小説を書けぬ小説家の物語を構想し、グラッフェンベルグは同様に「母の家で過ごした三日間」というタイトルで小説を書こうとしながらさっぱり原稿の進まぬヴェイエルスタインを語り手とする生活を描こうとしている‥‥。
 書けない作家が入れ子構造で出現し、話題は脈絡なくひろがり、仮にこの小説に本筋というものがあるとするなら脱線に脱線を重ね、どこまでもすべり転がっていく。実体験とも妄想ともつかぬ、若い女性たちとのひとときを交えて。果てしない逸脱の楽しみ、洒脱な語りの転がり行く末に。‥‥作家は自分の母親のためにのみ書く、その作品を、自分を産んでくれたあの若々しい女性に捧げるために、との想いに行き着く。
 憎めないダメ男の吐き出す真情は、時に鋭く、味わい深い。何故なら、それは奇妙に説得力を持っているから。

フランソワ・ヴェイエルガンス「母の家で過ごした三日間」 訳・渋谷豊 白水社
なぜか「神戸」 26

 単身、東京の何もかもから逃げ出した「私」は、ある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。あてもなくバーに入り、その店に働く女から教えてもらったアパート兼ホテルにそのまま住み着くことになる。昭和17年冬のことだった。
 どう生活費を捻出しているか不明のエジプト人、日本脱出を阻まれた盟邦ドイツの水兵たち、身体を悪くして大陸から戻ってきた元従軍看護婦、街娼のブローカーをするロシア人年配女性、風来坊の冒険家、兵役忌避の青年、模範的な軍国「日本人」と言えば唯一台湾人青年で、もともとここに暮らす女たちはと言えばバー勤めすなわち娼婦‥‥宿泊人も出入りする人びとも含めて、そこは奇妙なホテルだった。戦時体制下に奇跡的に残された空白のような場。体制からはみ出し行き場を失った者たちの吹き溜まりだった。
 一人ひとり興味深い存在感を湛えながら、中でもいちばん謎めいて不可解なのは、やはり「私」自身だろう。四十代半ばの現在、物資の欠乏で開店休業状態にある軍需商人。横浜本牧から流れてきた女を偶然知っていたことから、同じ部屋に起居することになり、周囲からいつの間にかセンセイと呼ばれるまでになっている。10篇の小文からなる作品を読み進めるにしたがい、彼の背景が少しずつ見えてくるような気にはさせられる。昭和15年の京大俳句事件から始まる弾圧に、沈黙を強いられた俳人。海外生活の経験を持つ骨の髄まで自由人、コスモポリタンで、厭戦思想の持ち主。東京の妻子の他に隠し子まである艶福家。
 しかし‥‥。
 本作品で著者はあくまで虚構を避けたと言う。その言をどう受け止めればいいのか。いわゆる小説ではないという意味ならそうかもしれない。読み手の空想と想像で補うように放り出された文章は、いかにも俳人的な手法で、隙間を埋められることはない。本当は何を考えているのかよく分からないところがある。読めば読むほど、どこかではぐらかされているのを感じ、欲求不満に陥る。

 しかもその欲求不満が妙に快い。困ったものだ。
西東三鬼『神戸 続神戸 俳愚伝』 講談社文芸文庫所収
歴史にたたずむ「死刑執行人サンソン」 25

 国王ルイ十六世の首を刎ねた男、というサブタイトルの示すように、本書は代々ムッシュー・ド・パリと呼ばれる死刑執行人の家系に生まれ、時代的な巡り合わせから「国王殺し」に直接手を染めねばならなかった男に焦点をあてる。
 いつどこのどんな共同体であれ、およそ共同体の意思として「死刑」制度のあるところ、刑を執行する者が存在する。共同体の意思を実現させる不可避な任務を帯びながら、直接的に人の命を奪うポジションゆえにしばしば畏怖と恐怖、その裏返しの忌避と差別の対象となる。他の職業人との交際はなく、同業同士でのみ付き合い婚姻がなされていたというから、ある意味でちょうど王家の対称に位置する家系とも言える。
 そんな対称形の頂点をなすサンソンと国王ルイ十六世は生涯に三回、直接的な接触があった。初めはヴェルサイユ宮、即位間もない若き王に、陳情する官吏として。二度目はチュイルリー宮。受刑者が苦しむ野蛮な首狩りから「人道的な」斬首器械へ、ギロチンについて検討の場で。革命の展開に伴いすでに事実上の軟禁状態にあった国王は、趣味の錠前作り、金属工作の分野で専門家の域に達しており、もっとも有効な刃の形について提案。ギロチンの刃が斜めの三角形になったのは彼の創意に基づくという。そして最後に執行人と受刑者として。皮肉にも自身の工夫による刃によって、王は苦しむことなく首を落とすことになった‥‥。
 時代を揺るがす奔流は、そこを生きた個人個人に避けがたい影を刻印する。そしてある種の選ばれた人びとは、本人の意思とは別の次元で、より濃密な影を背負わねばならない。そういう運命に衝き動かされた人物のひとりが、死刑執行人サンソンだった。ちなみに死刑制に懐疑的だった彼は、晩年明確に死刑反対の想いを抱いていたという。特別な使命を負ってしまった個人を掬いあげることで、不可逆的な歴史の流れが見えてくる。
 刺激的な読書を楽しめた。しばしば情緒的になりがちな筆致に違和感を覚えたことは付記しておくとして。

安達正勝『死刑執行人サンソン』 集英社新書
「雪は汚れていた」、 今までもこれからも 24

 ドイツ占領下、ベルギーの港町。冬。凍てつく街に、人びとは息をひそめて生活している。青年は肥った飲んだくれの将校を殺す。占領軍に対する反抗という意識はない。人を殺す、それ自体がひとつの通過儀礼であると感じていたから。誰でもよかった。ただピストルを手に入れることは魅力だった。そこを隣人に見られてしまう。いや、むしろ通りかかる隣人に気付いてわざと顔をさらしたのかもしれない。
 父親について聞かされたことも尋ねたこともない。母親は娼婦を何人か抱え、羽振りはいい。窮乏と無力感に閉塞する周囲は、嫉妬と軽蔑の綯い交ぜになった視線を向ける。占領軍幹部が古い時計の蒐集家だと聞き、知人の老人を殺しコレクションを奪って差し出す。特権的な立場を保証するカードを手に入れたい。しかし、それさえも積極的な動機になっていたのか。将校殺しの目撃者である隣人の娘は彼に好意を示していた。だから手なずけ家に誘い入れ、暗くした室内で飢えた友人に餌食を譲る。
 そして捕まる。
 誰かの密告か。占領軍内部の混乱のせいか。それもどうでもよかった。独房で青年の本当の闘いと思索の日々が始まる。世界を形作る価値観、その体系があらかじめ失われているとき、人は自らをどう位置づけられるのか。何をよすがにして。
 既成の価値に従って生きる、それに反抗して生きる、いずれも同じ土俵に立っている。ひとつの社会に生まれてくるとは、この共通の土俵に立つこと。だが、その土俵すら与えられなかった者は‥‥。強靭な精神力を持っているほど、いい加減な妥協を自らに禁じるほど、裸形のまま世界に向き合わなくてはならない。
 余分な形容を落とし、削ぎ落とされた硬質な文章が響く。少年はもとより、周囲の人物群像が生きる。メグレ警視のシリーズでお馴染みの作家の、いわゆる謎解きミステリーではない純文芸代表作。そのようなジャンル分け自体、あまり意味があるとは思えぬが。

ジョルジュ・シムノン「雪は汚れていた」 訳・三輪秀彦 ハヤカワ文庫
「黄金の壺」の誘惑 23

 ホフマンの世界は夢に似ている。現実と非現実が相互に入り組み冒し合い、境界は曖昧に溶け、物語は多義にわたり縦横に飛翔する。論理と非論理のあわい、隠された欲望の織り込まれた細部。夢に似ているというより、夢そのものと言うべきかもしれない。ただし、眠りのうちに収まりきらない夢、と。
 ホフマンを読んだ夜は、異様な熱に包まれ蒲団の中を転がりながら、いつまでも寝つけなかった。浅い途切れ途切れの眠りの切れはしを掬い集めるように、息苦しい興奮に包まれ、子どもながらこれは何かの罰に違いないと自問した。
 主人公の学生は、金緑色の光を放つ蛇と視線を交わし一瞬のうちに恋に落ちる。彼の才能を買って試練を与える枢密文書管理官は、実は火の精(サラマンダー)、不思議の国アトランティスに君臨する王侯で、金緑色の蛇は彼の娘。青年を惑わす俗世間の思惑と、魔女の呪いでインク壺に閉じ込めながらも、ひたむきな愛の力と詩人の魂は、火の精に導かれながら本来の想いを成就する。
 と、物語のあらすじをたどってもあまり意味はない。何十年ぶりかで読み返し、さすがに熱にうかされることもない。それを悲しむべきか喜ぶべきかはともかく、提示されたイメージの豊かさには感じ入る。緑色の蛇が微細な光に鱗(うろこ)を細かに反射させながら身をすべらせていく。たとえばこの情景にぼくらの五感は揺り動かされる。視覚的に酔わせる極限の形、現実を超えた知性、聖なるイメージ、それと同時に背徳的なエロティシズムへの傾斜。インク壺という小道具に閉じ込められるエピソードにさえ、インクを日常の道具とする学生の受難、透明ゆえに外界が見えながら、どうにも動きのつかぬ事態、窮極的な苦痛に快感の混ざり込むのを感じる。すべての光景、すべての感受性は多義的に用意されている。
 ロマン主義勃興に大きな影響力を発揮したのも当然だろう。異教的な香り、オリエンタルな憧れ、セクシュアルな情動。ロマン主義とはなるほど、少年の負うべき罪から生まれた罰なのかもしれない。

ホフマン「黄金の壺」 訳・大島かおり 光文社古典新訳文庫
いつしか「逝きし世の面影」 22

 開国したての江戸末期から明治初期、来日した多くの欧米人の目に映った光景。彼らの書き遺した記録、印象記を丹念に読み込んでいくと、そこには類いまれな文明社会の姿が浮かび上がってくる。階級差が少なく、貧しくとも豊かな表情を蓄え、知的で礼儀正しい人びと。西欧人の宗教的規範性とは別の倫理観のもとに生活は営まれ、笑いを絶やすことなく、性的におおらかで好奇心に充ち満ち明るい輝きを忘れぬ人びと。
 書き残したのは頭の固い宣教師から、こまやかに日常をつづる外交官夫人にいたるまで、この時代に来日したキリスト教文化圏の近代社会に属する、しっかりとした観察力と思索力を持った教養人であり、表現や印象に個人差はあれ、この東洋の列島で出会った光景を驚きに満ちた筆致で写し出している。いちはやく近代を生きることになった彼らのみが達成していると信じた文明の高み、そこに傲岸な視野の根拠を置いていた彼らが、想像することさえできなかった文明の姿を‥‥。
 ぼくらの曾祖父、あるいは祖父の時代についての言説を読み進めていくと、感受性のつながりの片鱗のようなものを見出し、いとおしさに胸が熱くなる。だがその郷愁がいかに甘くとも、変容しながら受け継がれゆく文化伝統として生き永らえることはあっても、生活総体の在りよう、その統合体としての文明は、歴史の中で去りゆくしかなかったと納得させられる。徳川時代を通じてどれほど魅力的で幸福な人びとの社会が実現されていたとしても、避けがたい現実として近代化が待っていた。滅びゆく文明として、この特異な時代はあった。それ以上でもそれ以下でもない。
 しかし、だからこそ問わずにはいられない。近代化が歴史の必然であったとして、現在につながるこのような形での近代化をしか、われわれは選び取れなかったのだろうか、と。明治以降の近代日本はある種の強迫観念によって伝統を抑圧し、練り上げられた蜃気楼であったかもしれない、と。

渡辺京二「逝きし世の面影」 平凡社ライブラリー
普通の速さで歌うように「モデラート・カンタービレ」 21

 1950年代フランス、港を中心に海沿いにひろがる小都市の会社経営者夫人、典型的な地方ブルジョワ階級に属する彼女は息子にピアノを習わせていた。裕福で堅実、規律とマナーに支配された家庭生活にあって、息子と共に散歩をする、ピアノのレッスンに付き添う、それだけが縛りを解かれるひとときだった。
 教師宅でレッスンのあった日、近くのカフェで事件が起こる。ピストルで射殺され笑みを浮かべたままの女性に、射った男が寄り添う。その情景を目にしたとき、名士夫人の中で何かが弾ける。息子を散歩に連れ出すのにかこつけ、翌日惹きつけられるようにカフェへ。仕事を終えた労働者が一杯やりに立ち寄るカフェは彼女の世界とは別世界。こうして出入りするだけで小さな町の噂にのぼる、そんな場所で彼女はたてつづけに葡萄酒のグラスを干す。カウンターにいる男、夫の会社を飛び出し現在失業中だという男が、昨夕の事件について語る。「女の心臓を狙ったのは、女に頼まれてしたことだろうと思います」。
 港のカフェに足繁く身を運び、信じられぬほど酒杯を重ね、男の言葉に耳を傾けていると、はっきりと意識しないうちに、ずうっと長いあいだ自分は死を望んできたのではないかと思いいたる。生活実感を抱けぬまま流れていく日々。体面と立場にがんじがらめになった倦怠の重み。銃口を向けられたとき、はじめて得られる昂揚のみが倦怠の重みから解き放ってくれるのではないか。抗いながら酒杯を重ね、彼女は夢想する。
 言葉が必ずしも明示的ではなく、人物についても事象についても克明に描き込まれているわけではない。読者としては戸惑いさえ覚え、曖昧な思いに終始付きまとわれる。そして、逃れようもなく現在の暮らし自体が死であるという、彼女の認識を聞くことになる。死は希望でさえなく突破口となる余地すらなく、自らの日々そのものに他ならない。
 絶望。絶望の深み。‥‥普通の速さで歌うように。

マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』 訳・田中倫郎  河出文庫
20回記念は「たった一人の反乱」 20

 漱石から始めた本コラムも20回、中締めがわりに丸谷才一に登場願うことにする。われこそは漱石の正嫡であるとの自負を持っておられたとしてもおかしくない‥‥予断と偏見から。
 というわけで、自衛隊への出向を断り民間の電器会社へ天下りした、元通産キャリア官僚を主人公とする世界に入り込もう。妻を亡くしたばかりの何不自由ない四十男がなんとなく、勢いから二十歳年下のファッションモデルと再婚するところから物語は始まる。いい気なものである。登場人物は「体制」から半歩はみ出したインテリ・エリートといわゆる「いい女」たち、美味い物を食い、深夜まで酒を飲み、蘊蓄を垂れ、器量に恵まれ健康に恵まれている。おっとり思索的、かつ俗物。まことにいい気なものである。
 だが時代は1960年代末期、造反の熱い季節。漠然と生きているわけではない。「市民」とは何か、それぞれの立場で考え、饒舌に語り合う。市民社会は時計が象徴する、なぜなら労働時間の管理を本質とするからという提起に一理あるなと頷き、そもそも奴隷制の上に立脚しているのではないか、という述懐にも説得力を感じる。歴史的過程として帝国主義がくっついていたり、氏素姓含めて清廉潔白なわけではないけれど、次の社会を想定できぬ限り大切にしたい、というまとめにもどこか騙されたような気になりながら納得しているところがある。
 しかつめらしい論議なら決してこうはいかない。いささか調子のいい恵まれた連中とは言え、会議に追われ宿酔に苦しみ家族の在りように苦心もする、そういう生活の上澄みの部分である種の軽みをもって語り合われるからこそ、このテーマが生きる。読みながらいつの間にかお喋りに参加している自分を見出す。真に重要なテーマは額に皺寄せ論じられるものではない。硬直を何よりも嫌う。これこそ丸谷ワールド。
 いずれ劣らぬ光彩を放つ登場人物たちは、そのくせ不思議に体温を感じさせない。何故だろう、その問いは解けぬまま残った。

丸谷才一「たった一人の反乱」 講談社
「退屈な話」に耳かたむけて 19

 名声と経歴の輝かしさに反比例するかのように、いかに醜く老い貧相であることか。記憶力は減退し、まとまった思考力とてもはやない。‥‥医科学への貢献で功なり名を遂げ、余命半年ばかりと自らの死期を悟った老教授の述懐は、世間的な成功の虚しさに始まり、若い頃あれほど愛し合った女性のなれの果てが、この妻であるのかと疑い、可愛かった子どもたちも今やエゴイスティックな寄生物になり果てたとつづく。勤勉でつつしみ深く、いかに献身的であろうと才能に欠ける助手。自分の頭で物事を考えず、何もかも指示と感想を待つだけの学生たち。いずれも科学に隷従することはあっても牽引することはできないだろう。
 絶望、そしてなにより確かな自己批評。生きてくる折々遭遇したさまざまな出来事や学問的研究、そのたびごとに真摯に向き合い考え、判断し決断してきたつもりだが、それらを統合する理念とか思想とかを持つにはいたらなかった、と。19世紀末ロシアの社会システムなど知らぬ身にも、ぴったり寄り添ってくる想い、相通じる感受性にふっとこぼれる笑いの苦さ。思わず自嘲的に周囲を見まわす自分を読者は見出すだろう。
 そして‥‥。老教授の言葉に耳を傾けながら、述懐の内容と彼自身のたたずまいとの間に、どこかずれのようなものを感じつづけていることに気付く。歯切れよく語られる絶望にもちろん噓はない。噓はないが、そこに収束してしまうことをどこかで拒否してもいることを。老教授の身体を、今も確実に流れている血の温かさとでも言えばいいだろうか。枯れゆく生命の内に息づく、なおも柔らかな想いのようなもの。
 老教授の後見する旧友の忘れ形見は女優を夢見て挫折し、無為な日々を送っている。これからどうすればいいのか。彼女の問い掛けに、振り絞るように「私にはわからない」。絶望に覆われた、しかし切り捨てるためではなく、誠実さから発せられた「わからない」。そこに込められた想い。温かく、柔らかい。

チェーホフ「退屈な話」 岩波文庫(訳・松下裕)/ほか
時は移ろう――「パリの胃袋」 18

 フランス第二帝政時代の社会全体を描き切ろうという野心的な試みとして結実したルーゴン‐マッカール叢書、20作の独立した長篇小説のうちから一篇を紹介しよう。
 伯父の名声と人気を背景に大統領となった甥は、さらなる権力を求めクーデタへと走る。反対する民衆のうちにいて逮捕され、島流しとなった男は7年ぶりにパリに舞い戻ってきた。今やナポレオン3世を名乗る皇帝のもと、近代都市へと大きく変貌を遂げつつあるパリ、かつて暮らした食品市場界隈の街へ。
 重々しい石造建築から、かろやかな鉄と硝子の時代へ。生まれ変わった市場には光溢れ、穀物野菜、魚介肉類、生鮮食品から加工食品までおよそあらゆる種類の食物が運び込まれ、集められ、さばかれ、分けられ、散ってゆく。昼夜の別なく演じられつづけるエネルギッシュな営み。以後ほぼ一世紀間、この市場は老若男女、貧富階級の別を問わず、パリに生きる人びとの胃袋そのものとして機能することになるが、本作にはその草創の姿が活き活きと描き出されている。時あたかも外光にたゆたう風景をキャンバスに封じ込めようとする、新しい絵画試行錯誤の時代。エミール・ゾラの情景描写は、彼ら印象派画家の描出する都市生活と響き合う。
 7年という歳月を経てパリの現在と立ち会った男の驚きは、しかしいつしか違和感へと変わっていく。明るい陽光にさらされた人びとの旺盛な食欲、剝き出しの欲望、生命力への謳歌から、次第に取り残されてゆく自分を感じる。禁欲的で瘦せた夢想家たる自分。この違和感は、両者の最終的な決裂につながらざるを得ないだろう。パリの街が変貌を遂げる、それは同時にその街に生きる人びとの生活観、民衆意識の転換をも意味していた‥‥。
 連続性・継続性を縦糸に切断・断絶を横糸に、連綿と織りなされてきたのが歴史という名の壮大な織物だとすれば、19世紀パリの食品市場を描きながら、この小説はそれだけの視点、スケールのひろがりを提示する。

 ゾラは大きい。
ゾラ『パリの胃袋』 訳・朝比奈弘治  藤原書店ゾラ・セレクション
「終わりの感覚」を生きる 17

 60代半ばを迎えリタイア、それほどめざましい日々があったわけではないけれど、それなりにやってきたとの自負はある。子どもも無事に育て終え、社会に対する責任も果たせたのではないだろうか。あとは穏やかな人生の最終局面をゆっくりたどる、そんな時間があってもいい。‥‥という段になって、突然「過去」に呼び戻される。ぱっくり傷口が開く。いやこういう境遇に立ち至ったからこそ立ち現われるのが「過去」というやつかもしれない。人類史にかかわるようなだいそれた問題ではない、しかし個人的な体験だからこそ看過できない出来事、記憶の発掘‥‥。
 学生時代はじめて付き合った女の子の反応は、読めずじまいに終わった。謎めいていてはぐらかされ通しだった。家に一度招待されたときもその家族から軽くあしらわれただけ。しかもあろうことか、別れた後に彼女は、私の敬愛する友人と結ばれた。高校時代に出会った友人のうち、もっとも思索的で優秀だった彼。衝撃を受けなかったといえば噓になる。さらにその彼が、やがて哲学的な、あまりに明晰な内容の遺書を残して自死したとあっては。
 ゆるやかに降り積もる時間の中で、いつしか忘却の淵に沈もうとしていた「過去」が私に呼びかける。しかし、記憶をあてにしてはならない。断片的に残っているつもりの記憶さえいつの間にか手直しされた、あやふやなものでしかない。記憶が揺らいでいくとき、私は「過去」とどう向き合うのか。そもそも私の「過去」とは。
 小説と呼ばれるジャンルが得意とするテーマと言ってもいい。答えの得られようはずのない問いを、問い掛けとして豊かに深めてゆくという意味において。ウィットに富んだ鋭利な知性が取り組んだ本作は、同時代を生きるイギリス中産階級の生活感性を背景に、ドラマティックな展開を楽しませてもくれる。きわめて知的な著者が、内心軽んじているに違いないタイプの人間、いわば凡人になりすまして綴っていく物語作法に、いささか鼻白んだことは告白しておくとして。

ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』  訳・土屋政雄  新潮クレスト・ブックス
短篇の斬れ味 「家霊」 16

 山の手の高台から下町へ向かう坂の途中、八幡宮に向き合って老舗のどじょう店「いのち」はある。女学校を出て3年の後、病に伏した母親に代わって跡取り娘は家業の帳場を守ることになった。
 岡本かの子晩年の短篇だから、舞台は昭和10年前後の東京と考えていいだろう。年の暮れ、寒さに凍てつく夜、裏長屋に住む老彫金師がいつものようにどじょう汁の出前を註文にやってきて、若い当主を搔き口説く。ツケを払えぬままの年越しだが、長年にわたって先代の母親と交わされてきた約束事がある。柳の葉に尾鰭の生えたような小魚のいのちを骨の髄に沁み込ませ、ひたすら鏨(たがね)と槌(つち)を握りしめ、得心の行くものができたとき代金がわりに持ってくる、と。満足の行くものはそうそう簡単に出来る代物ではなく、老い衰えた自分にもはや会心の作など無理かもしれぬ、それでもなんとか今まで通り‥‥。
 女学校で教育を受け卒業後何年かの時間を与えられるほどには自由でありながら、嫌い抜いた家業の跡取りを逃れられるまで自由ではない。近代化してゆく山の手と江戸の残照の宿る下町の中ほどに位置する店は、庶民の食物であるどじょうを商う格式のある名店。名工の腕と品格を持ちながら、いやその完全主義ゆえに時代に遅れ不遇をかこつ老人に明日の希望はない、それでも放蕩三昧の夫を横目に家業を守り抜いてきた先代といのちの交感をしてきたとの想いはある。
 前近代と近代、男と女、封建道徳とロマン的熱情、言葉にすれば単純な図式になってしまいそうな、幾重にも重なり合った価値観、意識の二面性がさりげなく、しかし濃密に絡み合っていることに驚かされる。ぴんと張り詰めた両極のあいだに、かろうじて宙吊りされた世界。このあやうい均衡、一瞬の無風状態を描き切っているところに、この作品の凄さがある。時あたかも、泥沼の戦争時代に本格的に突き進む、ひとときの凪(なぎ)を思わせる時代であった。

岡本かの子「家霊」  新潮文庫『老妓抄』所収
「蜘蛛の微笑」が凍るとき 15

 物語の行方が気になり、ともかく最後まで読み通さずにいられない。そうしておいてじっくり読み直し、思わず深く溜め息を吐く。これが一級のサスペンス。だとすれば、その後さらに間をおいてから読み直し、またまた新たな酔い心地を味わわせてもらうとなると、これはなんと呼べばいいのだろう。
 まず三つの語りが聞こえてくる。愛人にサディスティックに接する外科医、何者かに追跡されてとらわれ監禁された青年、銀行を襲い負傷したまま逃亡中の粗暴犯。別々の語りが次第につながり、絡まり合っていくにしたがって、いやがうえにも緊迫感は高まり物語はクライマックスを迎える。読者としてはお馴染みの形式のひとつと言っていい。均斉のとれた展開は破綻なく、いささか遣り過ぎの感はあるけれど巧みな物語構成、「蜘蛛」の存在感は出色、などといくらか余裕をもって読み進んでもいける。ところがどうしてどうしてこの作品、それだけでは終わらない。
 物語展開の安定感、人物描写の的確さ、意表を衝かれる刺戟、思わず唸らされる説得力。魅力的な要素を挙げればきりがない。しかし本当に臓腑に沁みわたる衝撃は、特別な人間ではないわれわれの心性の思いがけぬ揺らぎ、信じられぬ深淵を垣間見せられたときにやってくる。思いがけぬ、信じられぬ‥‥という形容自体、意識の奥の奥の方ではこんなことも在り得る、と驚きつつ可能性として感じ取り納得していた表れなのかもしれない。危うく仄暗くわれわれ内部に発する不可思議との遭遇。
 人間関係の劇的な転換を示したところで、物語は幕を閉じる。ここで閉じるしかない物語と言い直してもいい。その幕引きの鮮やかさに酔いしれ、しばし呆然とした後、だからこそ想いを馳せずにはいられない。
 明日、彼らはどのような日を迎えるのだろう、どういう日々を送るのだろう、それをもし仮に窮極の愛と呼ぶならば。

ティエリー・ジョンケ『蜘蛛の微笑』  訳・平岡敦  ハヤカワ・ミステリ文庫
「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」を追う 14

 革命の嵐吹き荒れるロシアの地から命からがら逃げ出したセバスチャン・ナイトは、イギリスに渡るとケンブリッジに学び、小説を書き始める。それも母語たる祖国のことばではなく、格闘しつつ学び取った英語で。独特の感受性と視線を持った作品は確実に評価され、新進作家としての地位を獲得していくものの、母親譲りの心臓病で早世する。
 幼い頃から離ればなれに育ちながら、彼を慕い敬愛していた異母弟の「ぼく」は、セバスチャン・ナイトの生涯について一冊の本をまとめようと思いつく。こうして生前の彼の関係者の許をたどり始め‥‥、物語はミステリー風に展開してゆく。
 はっきり言って読みにくい。幾度も文章を目で追いながら、またしても膨大な読み逃し、読み間違いを犯しているのだろうと不安に駆られる。細部にいたるまで数々の仕掛けを張りめぐらすのが、この作者の遣り方だから。それでも本をおく気になれないのは、作品の放つ本質的な力のようなものに惹きつけられるからに違いない。
 20世紀を生きた作家のうち、もっとも謎めいたひとりであるナボコフは、革命の混乱にある祖国ロシアを逃れてヨーロッパ諸国を転々とした後、最終的には米国籍を得るにいたる。その過程で母語ではなく、英語で書き記すことになった第一作がこの小説なのだという。
 ‥‥いかに作品と作家の実人生は別物とは言え、相互に浸食し合い重ね合わされた物語がここに提示されている、と素朴に感じる。まして、異母兄セバスチャン・ナイトの生の軌跡をたどるにしたがい「ぼく」自らがセバスチャン・ナイトだと感じ取るに至る、とあっては。ナボコフによるナボコフ探求、そして発見の物語と受けとめるのはあながち的外れではないだろう。
 サド・マゾと並び、現代日本でかろやかに用いられるロリコンなる言葉の語源「ロリータ」の作家、と言えば一層の興味と関心を得ることになるかもしれない。

ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』  訳・富士川義之  講談社文芸文庫
「文人悪食」で満腹 13
 君が何を食べるか言ってみたまえ。君が何者であるか言い当ててみせよう。ブリア=サヴァランを引くまでもなく、「食」は雄弁にひとを物語る。漱石鷗外露伴子規藤村一葉鏡花荷風茂吉啄木‥‥近代日本を代表する三十七名の文人を、「食」の切り口からさばいてしまった本書はそれを十二分に証明している。
 死の床にのたうちながら、母と妹を横目にひたすら貪り食う正岡子規、喀血しながらわずかな仕送りで高価な西洋果実に齧りつく梶井基次郎。生命力を推し量る凄絶さで語られるのも「食」なら、育ちを映し出すのも「食」。強靭な肉体と強靭な精神の持ち主、志賀直哉は好奇心からガマまでしっかり味見し、八十八歳までしゃんと胸を張って生きた。対照的に、極貧の境遇から這いあがった林芙美子は、報われなかった半生に復讐するかのように食らい、病んで没した。趣味嗜好という面からみればさらに興趣は尽きない。缶詰なる形態に異様な愛着を示す内田百閒、芥川龍之介の大好物は鰤の照り焼きであったという。強迫観念にとらわれていた泉鏡花は腐の字を嫌い「豆府」と書き、大根おろしは煮て食べたのだとか。そして当然ながら「食」は生のスタイルを裸にする。石川啄木はひとにたかることで自らの絶対性を確認、逆におごり上手の筆頭は菊池寛。酒癖悪くやたら喧嘩を売る中原中也、一流店にこだわりながら食には関心のないふりをした小林秀雄‥‥。
 著者の庖丁さばきの冴えは全篇を貫く。たとえば「藤村は粗食淫乱の人」と定義づけ、「粗食淫乱は、青年の特質」であり「藤村が薄気味悪がられたのは‥‥生涯が青春であった」からだとつづけ、「嫌われつつも読まれた藤村の力」とまとめる。その批評眼は研究者の視線と、酒席で気のおもむくままなされる文学放談の境界線上で揺れる。本書の真骨頂はそこにある。「偏」「奇」「妙」「変」「貪」「狂」「病」「廃」の万華鏡にめまいを覚えつつ、どちらにも落ちぬバランス感覚は名人芸と言っていい。さすがに、かすみを食う文人にめぐり合うことはなかったようだが。
嵐山光三郎『文人悪食』  新潮文庫
「おわりの雪」のおわり 12
 ふとした偶然から未知の土地を旅するなら、いっそ何の予備知識も持たずに訪ねたい。たまたま手にした一冊は作家の名すら知らない。深く息を吸い込み五感を研ぎ澄ませながら、おもむろに最初の一文「トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ」を読むとき、ぼくらは未知なる土地の旅人となっている。
 アルプスだろうか、場所は特定されない。北欧であってもカナダであってもいい、雪山の美しく聳えるのが見える小さな町ならどこでも。自動車も電気も駅も鉄道も出てくるから現代であるに違いはないけれど、年代まで特定されているわけではない。語り手の少年は養老院で、庭を散歩する老人の手を採ることでチップをもらう。三人家族は屋根裏に暮らし父は病に伏している。母は夕方出かけ、夜遅くに戻る。父にとって愉快ではないらしい外出。穿鑿する気はないが、寝ている父をせめて起こさぬようにはしたい。
 家族身を寄せ合い少しずつ気を遣い合う日々。鳥籠に閉じ込められ売りに出されているトビを見つけ、少年はどうしても欲しいと思う。トビを買うため引き受けたのは飼い主を亡くした老犬の処分。降り積もった雪の原を共に歩く、深い雪に次第に遅れを取り始める犬が遂に同行をあきらめ、はぐれ、戻って来られなくなるまで、ひたすら歩く。止まらず駆けるように歩く。雪、雪、雪。父のベッド脇で二人はトビを眺めて時を送る。鳥籠の中の野生に感動を共有しながら。
 描かれた細部は時に胸を打つほど鮮やか、そのくせ全体の輪郭は最後まではっきりしない。どこか不確実でぼんやりとしている。それは回想の光景、回想の描写であるから。かつての少年は想い出している。唯一分かり合えていた父が逝き、トビを飼っていた年を。少年時代のおわりの雪、もしかするとこの土地で見た最後の雪を。
 この少年にどこかで出会った気がする。そう感じたときひとつの旅を終えて、ぼくらはぼくら自身の回想に身を置いていることになる。
ユベール・マンガレリ「おわりの雪」  訳・田久保麻理  白水Uブックス
「死の都ブリュージュ」をめぐる 11
  突然の病で愛する若い妻を失った男は、ひとりブリュージュで憂愁と哀惜の日々を送る。
 ルネサンス時代「北のヴェネツィア」と呼ばれた古都は、縦横にめぐらされた運河の掘割や大聖堂はじめ多くの教会に、数世紀前の繁栄の記憶が降り積もっていた。今日より昨日、現在より過去。灰色の空、重い雲、霧雨に覆われた石の街はひっそりと運河に影を落とし、その影は時の経過をなぞり、往時を刻むようにたたずんでいる。しっとり大気に覆われたひそやかさは、ひたすら妻を偲ぶ男の日々に重ね合わされていく。いまわの際に切り取った妻の毛髪、男にとって聖遺物たる髪の束だけが無彩色の場に金色の彩りを添え、いつしか「喪」の日々は5年に及んだ。
 ある日、男は亡妻と瓜二つの女性に出会う。似ている、しかしそれはしばしば残酷な詐術。似ている本来の対象へ立ち戻らせながら、同時に似ているに過ぎない差異の鋭い裂け目を見せつけるから。似ていることは同一性ではあり得ない。あり得ぬどころか相容れぬ異物ともなる。容姿だけそっくり、中身のまるきり異なる存在は、そっくりなだけにかえって相違を際立たせさえする。
 ブリュージュがかつての栄華を年に一度甦らせる祭礼の日、男の家に押しかけた妻そっくりの浮かれ女はよりによって聖遺物、妻の髪の束をケースから取り出し、悪ふざけする。男の中で耐えてきたものがぷつりと切れ、女の首に巻きついた妻の毛髪を両手に握るや、渾身の力を込めていく‥‥。このときブリュージュは妻と一体化し、妻の残した毛髪は祭礼の具と一体化していた。それをもてあそび、辱める行為は決して許されることではなかった。
 追憶に生きる。忘却の網目から流れ去ることない記憶の結晶を求めて。人の世に真実と呼ぶに値するものがあるとすれば、それは追憶のうちにしかないのかもしれない。ローデンバックのブリュージュをめぐって来たとき、人は誰でもそういう感懐にとらわれるだろう。
『ローデンバック集成』  訳・高橋洋一  ちくま文庫 所収
「わんぱく時代」、そして 10
  明治後期の紀州・新宮を舞台に著者の追憶を核に組み立てられた作品には、南国の豊かな自然を背景に、少年たちの姿が生き生きと描きこまれている。
 大人たちの世界でなされる「戦争」を尻目に、思い切り雌雄を決した後わだかまりなく仲直りするために「戦争ごっこ」のルールを打ち立て、興じる少年たち。腕っぷしではからきし役に立たぬものの参謀として有能な語り手と、知力体力共に他を圧倒する敵の大将である少年は互いに相手を認め合い、堅い友情を育んでいく。この間、文学との出会いがあり、被差別部落へのいわれなき差別の現実への覚醒があり、将来の進路をめぐる父親との対立があり、初恋のおののきが織り込まれる。
 しかしこの小説はそれだけで終わらない。むしろここから始まる。小、中学校の教育制度と絡めて作中の後景に見え隠れしていた「国家」が次第に前面にせりだしてきて牙を剝く。前半の牧歌的な世界に、自らの少年時代を重ね郷愁にひたっていた読者は、この小説のスケールの本当の大きさを想い知らされることになる。
 富国強兵を合い言葉に次第にその形をととのえてきた「国家」は日清、日露の両戦争を経て、さらなるステップに向けて社会主義者とそれに繫がる者たちの弾圧、見せしめを企て「大逆事件」なる仮構をデッチあげる。朝鮮半島の植民地化と表裏をなす、この国家犯罪によって少年時代からの親友、さらに医者であった父親にとっては同業の友人、親子二代にわたって、それぞれかけがえのない存在を奪われてしまった怒りが原動力となっていたのだ。 
 60代半ばまで燃え尽きることのなかった憤りを底流に、噴き出すように執筆された遠い少年時代はさらなる透明感を獲得し、切ないまでの輝きを放つにいたった。読者は小説という表現手段の持つ力を思い知らされ、しなやかな強さを充分味わうことになる。
 ちなみに、東洋の島国は「大逆事件」をなし崩しに曖昧にしたまま100年後の今日にいたっている。
佐藤春夫『わんぱく時代』  講談社文芸文庫
「パリの王様たち」に言うことなし 9
 ほとんど手当たり次第に女性と関係し83歳で亡くなる直前まで現役を通したユゴー、ヨーロッパ中に500人は自分の子がいるだろうと豪語したデュマ、女性の内に母、教師、精神分析医、金銭的協力者、貴族の血を求めつづけたバルザック‥‥。「ユゴー・デュマ・バルザック、三大文豪大物くらべ」と副題を付された本書にはこの種のエピソードがちりばめられている。
 ナポレオン全盛期に少年時代を送り、不世出の軍人に自分の父なる姿を重ね、「剣」の時代に遅れてきたからには「ペン」の力でナポレオンを継ごうとした世代。その断固たる欲望、飽くなき名誉欲・金銭欲・性欲、世俗的欲望がいかにこの巨人たちを巨人たちたらしめたか。その俗っぽさのスケールの大きさたるや、尋常ではない。なにひとつ書いていない時点で、なにを書くかのビジョンさえ持っていないうちから、それぞれ我こそは天才であるという確信だけはゆるぎない。確信のままに動き、いつの間にか確信が形を呼び込みチャンスを惹きつけ、文芸思想の大きな歴史的転換を実際に牽引する役割、魂のナポレオンとなりおおせてしまったのだ。
 かのジャン・コクトーは「ヴィクトル・ユゴーとは、自分がヴィクトル・ユゴーだと思い込んでいる狂人」と評したという。なるほど。笑いながら深く頷いてしまうのは、鹿島センセイの術中にすっかりはまったせいだろう。まして「近代」を語るキイワード、ロマン主義を「セックスの衝動を《愛》という言葉で置き換える精神の傾向」と定義されると、ううむと唸ってしまう。とかく高尚お上品と勘違いされがちな芸術思潮談義が、容易に理解可能な地平に降りてくるのはなんとも快感、喜ばしい限り。
 抱腹絶倒、前代未聞の近代文学談義の上梓された背景には、なんともみみっちい時代、みみっちい場にわれわれはいるものだ、との溜め息まじりの慨嘆がある。この点についても残念ながら同感と言うしかない。
鹿島茂『パリの王様たち』 文藝春秋
はるか遠く「リサ伯母さん」
 母を早く亡くした身にリサ伯母さんは特別な存在だった。大学教員生活にピリオドを打ち老境と呼ばれる年代を迎えた今、無性に懐かしい。
 九州で過ごした子どもの頃から京都の大学卒業後、フランス留学中に伯母さんが亡くなるまでの思い出は、ちょうど戦争を挟む時代にあたっていた。色の白い〈西洋人みたいな〉顔立ち、当時としてはハイカラ、ミッションスクールで英語を教えていた伯母さんにせがんで、よく港に連れて行ってもらったのを思い出す。波止場に横づけになっている外国航路の大きな船が好きだった。
 ‥‥なにげなく老妻に昔話を語りかけ、リサ伯母さんについて触れると、そんな人の話は聞いたこともないと怪訝な顔をする。夫がボケてきたのではないかと真剣にいぶかる様子の妻に、夫は夫でこいつ大丈夫かと疑念を覚える。
 かつて東京の私大に送り出したひとり息子は、その生活に馴染めずひっそり自死を遂げた。夫はそのことについて会話にのぼせることを禁じ、ひたすら忘却の彼方に追い込もうとし、妻は我が子を決して忘れまいと生を重ねてきた。このふたりの齟齬が、互いの不信と距離を知らず知らずのうちに胚胎させてきたのだろうか。そして迎えた老いの日々、為すこともないままあたたかい寝床にもぐり込むように、リサ伯母さんの心地良い思い出にもぐり込んでいくのだろうか。
 しかし、思い出そのものがもはやあやしい。彼の頭の中にだけある思い出は、外へ開いていくことはない。彼の記憶を裏付ける何物もない。老いはすべての確信を容赦なく奪うのか。
 記憶の溶解してゆくとき、人は何を拠り所にできるだろう。
 共に重ねた歳月の記憶を共有出来なくなったとき、夫婦とはそもそもなんなのだろう。
 リサ伯母さんは果たして実在した何者かだったのだろうか。自らに向けた最終的な問いを発せずにはいられない、井戸の底を覗き込むように。自己崩壊の危機と隣り合わせに。
山田稔「リサ伯母さん」 編集工房ノア『リサ伯母さん』所収
シリーズの醍醐味「リヴァイアサン号殺人事件」
 日本文学研究者にして翻訳家、ロシアに三島由紀夫を紹介したことで知られるボリス・アクーニン。このペンネームが日本語の「悪人」をもじったものであり、19世紀世紀末ヨーロッパを背景にした推理小説をものしたとあっては、どうしても食指が動く。
 進水式を終えたばかりの豪華客船リヴァイアサン号は、イギリス・サウサンプトンからヨーロッパ各地に寄港、地中海、スエズ運河経由でインド・カルカッタへと処女航海に向かうことになっていた。近代的テクノロジーの結晶とも言える巨大船では、従来の旅のイメージを払拭する快適な居住性が約束され、華やかな社交の繰り広げられる場としても話題を集めていた。そして、そのサロンに乗り合わせた豊かな乗客のうちに、パリで起きた大量殺人の犯人が紛れ込んでいる‥‥。
 抜け目なく嗅ぎつけた老獪な警部は客として乗り込み、ディナーの席を共にし、文字通り食と会話を味わいながら、真犯人をあぶり出そうとする。しかしサロンに集まるのは国籍もさまざまなら、いずれも一筋縄ではいかぬ人物ばかり。本シリーズのヒーロー、ロシア人外交官ファンドーリンも、日本への赴任の旅の途上たまたま居合わせた者として、客の中にまぎれこんでいる。特筆しておきたいのは同じくサロンに乗り合わせた日本人で、西洋医学を学び帰国の途にある武家の青年。そのたたずまいと周囲からの反応も含め、日本文学研究者ならではの造型というべきだろう。
 海上の豪華船という壮大な「密室」で繰り広げられる心理戦、これだけでたまらない舞台設定だが、インドの財宝を巡って物語は大きく膨れ上がり、わがファンドーリンはシリーズ第一作で受けた心理的痛手を乗り越えて大きく成長、あくまで優雅にして聡明、溜め息の出るほどの切れ味を示す。登場人物それぞれの負っている過去と現実が次第に明かされ絡み合ってくれば、気の抜けぬままページを繰るスピードはいやがうえにもあがっていく。
 ただこの物語、人が死に過ぎる。
ボリス・アクーニン『リヴァイアサン号殺人事件』 訳・沼野恭子 岩波書店
「椿姫」を読む
 椿の花を絶えず手許に置いていることから椿姫と呼ばれる高級娼婦(クルティザーヌ)と、堅実な家庭に育った初心(うぶ)な若者の恋物語。ご存じ、オペラ「椿姫」は楽器として完成された人間の歌声に身をまかせる心地良さを教えてくれる。あらすじさえわきまえていれば歌詞の内容に注意する必要はない、ひたすら歌の心地良さに身をまかせていればいい。
 だからこそ原作を読んでみる。
 天性の美貌で何人もの有力な愛人後援者を破産に追い込んできた椿姫は、いかにちやほやされようと、愛とは無縁であることを知っていた。結核に冒され、それでもその場しのぎの虚しい享楽を生きつづけるしかなかった彼女の前に、はじめて自分のためではなく彼女のために涙を流す青年が現われる。地方名士の家庭に育ち、まったく異なる境遇を背負った青年。こういうふたりだからこそ一旦燃え上がるや、愛は一途であまりに激しい。経済的な行き詰まり、忍び寄る死の恐怖、ブルジョワ道徳の締め付け、そして何よりふたりの内にある不安、破局の予感は、ふたりの想いをさらに激しく燃え上がらせる薪となる。
 それにしても青年のめそめそぶりに辟易とする。ひたすら純粋で感傷的、そのくせ想像力に欠ける未成熟な坊やに限って、ちっぽけな自尊心を傷つけられたと感じるや、残酷な攻撃性を発揮する。椿姫に匹敵することのない男の小ささは、彼女のけなげさをいっそう浮きあがらせる。過去を受けとめながら、愛を契機に生き直そうとするけなげさを。愛をさらに高める決意、自らの誇りのために生きる意思の強さは、すでにお涙ちょうだいのヒロインの域を脱している。そもそも彼女の負うべき罪とは何なのか、それをこそ問うべきだと感じずにいられぬほどに。
 親切な注と読みやすい新訳に、幾度となく助けられて読み通すことができた。機会があればモンマルトル墓地に眠るという「椿姫」を訪ねてみたいと思う。
デュマ・フィス 訳・西永良成 光文社古典新訳文庫
『おとしまえをつけろ』
 ジッポーのオイルライターで煙草に火をつけ、ハヤカワ・ポケミスのページをひろげる、バックグラウンドミュージックはブルーノートレーベルのクールジャズ。それが恰好よかった。ミステリーという言葉が新鮮だった。十歳前後のこと。巨人軍の野球帽をかぶったり、ナベプロの歌手の物真似しているクラスメイトをどこかでコバカにしていた、生意気なクソ餓鬼だったわけだ。
 しかし憧れは尾をひいた。気になる新刊はもちろん再刊されるのを気長に待ったり、古本屋で見掛けると昼メシ代をあてたり。そんなポケミスの中でもいまだに手許に残してあるのは、岡村孝一訳のジョゼ・ジョバンニだ。
 暗黒街を舞台にした作品群は、多くリノ・ヴァンチュラ主演で映画化された。なにしろこの作家自身が若い時代、暗黒街の住民だったせいもあって、登場人物の造型、心理描写のリアリテは群を抜いている。そこへ持ってきて、岡村訳はジョバンニ以上にジョバンニだとの定評がある。二度目の息、息を吹き返す、といった意味の原題が「おとしまえをつけろ」になってしまうほど。
 終身刑で服役していた暗黒街の大物が脱獄、かつての仲間の前に姿を現わすところから物語は始まる。娑婆(しゃば)から隔離され老いたとは言え一流の仕事師が、昔馴染みの女と無事海外に逃げ出すためにはもう一度大きなヤマをあてる必要があった……。
 短い「あとがき」で訳者は「こういう年増と“サシ”で、ブイヤベースのナベなどつついてみたい」と書く。昔気質(かたぎ)の美学を貫く、血の熱い男の物語。しかしその深層を流れるのはメロドラマさ、と示唆しているようにも読める。
 本コラム第2回で採り上げた翻訳がひとつの極を示すとすれば、本書はその対極に位置することになる。どちらが善いとか悪いとか論じる資格はもとよりない。まして、そこでおとしまえをつける気はさらさらない。
ジョゼ・ジョバンニ 訳・岡村孝一 ハヤカワ・ポケット・ミステリー『おとしまえをつけろ』
『首塚の上のアドバルーン』
 1980年代後半、列島中ざわざわ落ち着きを失っていたバブルの時代、限りなく著者本人に近いと思われる作家が高層マンションに越してくる。東京の延長、千葉県幕張の埋め立て地。どこもかしこも建設中で新旧入り乱れた散文的な光景の淡々と綴られるうち、14階のベランダから見える丘に、思いがけず首塚を見出したところから作家の思考回路は活性化する。
 京都は嵯峨野で思いがけなく行き合った新田義貞の首塚の体験が重なるように甦り、太平記、平家物語の登場人物たちの世界を行きつ戻りつし、汲みあげられた記憶と読み直しによって更新された思いが糸を綯うように語られていく。恥ずかしながら古典とまともに向き合った体験の薄い筆者には刺戟的な逸話も多く、たとえば徒然草の兼好法師が太平記にちらり姿を現わすことなど初めて知った。それも不人気な策士、高師直のブレーンとして。
 たまたま作家が出会った近所の首塚。個人的な記憶を呼び覚まし、さらに文献を読み取ってゆくに従って、自らの病気療養も挟んでひとりの人物、作家にとってまったく無縁な存在とは言えない存在に行き着くこととなる。自身現代語訳したことのある「雨月物語」に登場する、足利幕府の内紛と関東地方の混乱にかかわる武将。たまたま居合わせた場所、たまたま出会った事象、それを丹念に思考の対象とすることで、物語を呼び起こしてゆく。あるいはたまたまという偶然の横糸と、語り伝えられてきた歴史という縦糸をさらに豊かな物語に織りあげてゆく。作家の本領はどうやらこの辺にある。
 地中には中世の武将の首が埋まり、空中には人寄せ商業施設のアドバルーンがふわりふわり泳ぐ。首塚の上のアドバルーンというタイトルに、その本領は集約的に表現されている。14階から見える光景の中で過去と現代は上下一直線につながり、埋まっているもの、浮いているもの、これほど趣は異なりながらそれぞれの球形が響き合う。
後藤明生 ■講談社文芸文庫『首塚の上のアドバルーン』
「よじょう」の笑い
 板前として庖丁を握り、料理場で働く。九州肥後の下級武家次男坊、岩太はそう願った。他の生活など考えられない、それこそ生き甲斐だった。父の大反対で家を出たものの、情婦たちには愛想を尽かされ、強くもない酒に溺れ、やくざにすらなりきれぬ日々。ひょんなことから剣聖・宮本武蔵に斃(たお)された父の通夜の席で、家督を継いだ兄に遂には勘当を申し渡される始末。
 いっそ乞食にでもなってやろう。城下町をはずれた橋近くに乞食小屋を作り不貞腐れていると、どうだろう。知人であるなしを問わず、人びとが入れ替わり岩太を訪れる。鄭重に声を掛け、金品、重箱に入った料理、着物、身の周りの品々と思い思いの贈り物をし、激励までしてゆくようになったではないか。人生はおもしろい、世を拗ねた優男(やさおとこ)が開き直って世捨て人の生活を始めたところから、別の風が吹き始めるのだから。‥‥それにしても。
 狐につままれた気分で過ごした数日後、はたと気付いて腑に落ちる。身を乞食に落として父の仇・宮本武蔵を討とうとしている、城下の者たちからそう思い込まれているのだ。
 多勢の門下を率い崇拝の対象である宮本武蔵、最晩年の剣聖をしかし岩太は笑う。筋肉質で精悍、心身共に鍛え抜かれた無双の達人を、この武士道落第者だけが笑いとばす。いや落第するような種族だからこそ見切ることができたのかもしれない、権威そのものとなった老人はいわば張り子のトラ、恐れるに値しないと。
 落ちこぼれのラディカリズムとでも言おうか、岩太の笑いに同調し喝采しながら、どこかでやられたと感じる。それは、いつの間にか権威をまつりあげ、おもねることで安逸な眠りを得る側にいるからでもある。硬直した権威を笑う。無批判に現状に安住している者にとって、覚醒を促される挑発であり攻撃であるのだ。
 ひらがな四文字の不思議なタイトルも最後で得心、ここでまたふっと笑いに誘われる。
山本周五郎 ■新潮文庫『大炊介始末』所収
原語のリズムで「待ち合わせ」
 海外文芸はカクテルにたとえてもいい。ドライマティーニをバーテンダーにまかせるように、翻訳者に寄りかかってページを繰っていく以上。十九世紀風小説の骨組みから逃れ、ストーリーに収束することもない、平板に見えながら実は入り組んだ日常、取り散らかった現実を生きる者のことばによって紡がれる作品とあれば、なおさら寄りかかりの度合いは増してくる。
 三ヵ月前に別れた恋人をあてもなく待つ「僕」が久しぶりに会った友人は、三日前に細君が家を出て行ったところだと言う。友人に付き合い一緒に細君を待つうち、細君からは「僕」の方に電話が入り、「僕」を待つために彼女は家を出たと告げる。‥‥前半の流れを追っただけでも、複数の相の「待つ」があらわれる。人と人の在りようを映す「待つ」は、それぞれの感受性や思惑、行き違いによって、その意味合いは枝分かれし反響し合い、と同時に溶け合い重なり合ってもゆく……。
 植物園に併設された動物園、セーヌ河岸に繋留された川船、クリシー広場近くの街並を舞台に今日のパリ、思いがけない都市生活の断片を覗き見し、とりとめない「僕」のモノローグを受けて、読者はいつしか笑みを浮かべている自分を見出すだろう。ことばの織りなす揺らぎに身をゆだね、未整理と混乱の内にわれわれはたゆたうしかない存在なのだな、とあらためて感じ入りながら。
 訳者あとがきに「緩急自在な文体の相似形を作るため、原文のピリオドと同じ位置に訳文の句点を置き、カンマには可能な範囲内で読点を対応させようとした」とある。これだけの制約を課して原文を読み込み、母語をまさぐり再構築したものであると知り、驚きを禁じ得ない。翻訳という営為の極北とでも言おうか‥‥。いずれにせよ、作者にとってもわれわれ読者にとっても、以て瞑すべしだろう。
 極上のドライマティーニを差し出されたときのように。
クリスチャン・オステール 訳・宮林寛 河出書房新社
「坊っちゃん」から始めよう
 親譲りの無分別で安請け合いばかりしている。「読書をめぐるコラムでも」と誘われ、特に断る理由もないしなんとかなるだろうととりあえず引き受ける。どうせなら誰にでも馴染み深いものから始めようなどと余計なことを思いつく。実力と胆力が伴わぬくせに、救いようのないお調子者があったもんだ。

 というわけで、あらためて「坊っちゃん」を読み直す。
 読むたびに、受ける印象や感想は大いに変わる。文章のテンポとリズムを楽しみながら、今回気になったのは、話者である「坊っちゃん」の自己規定の多さだった。無鉄砲、真っ直ぐ、淡泊から始まって、卑怯を嫌い、義侠心に生き、天衣無縫の正義派、これでもかこれでもかと自分の性格を述べ、行動様式を語り、価値観を披瀝する。好もしくも微笑ましいとも思う、しかし本音を言えばいささかうるさい、思考力の贅肉とでも言うべきものの一切ついていない剛直な人物とは、とても一緒に酒を呑む気になれないなと感じる。感じながら、これこそ漱石の整理づけようとした「江戸」ではないかと思い当たった。
 デフォルメされた江戸っ子気質、その盟友・山嵐は佐幕派として最後まで戦った会津育ち、幼少時代から支えてくれた下女の清が維新で零落した家の出と揃えば、坊っちゃんは「江戸」そのものを代表すると解釈するのが自然だ。とすればその対立軸としての赤シャツ、野だいこ、陰険・柔弱・卑劣・狡猾な悪役は、新時代の教養と権威、出身から「東京」を意味することになる。
 彼らを鉄拳制裁するシーンにいかに溜飲を下げようと、ここで強調しておきたいのは、敗北して逃げ出すのは坊っちゃん・山嵐の側であり、せいぜいイタチの最後っ屁、意趣返しをしか意味しないことだ。好悪・善悪は別として、江戸はもはや江戸として生きられない。東京の時代の到来なのだ。その苦さが読後に漂い出す。
 いま東京の時代の、終わりの始まりを意識しつつ。
夏目漱石 漱石全集、岩波文庫他